明智光秀と本能寺の変 - 小和田哲男

小和田哲男 明智光秀と本能寺の変

Add: oziwiv9 - Date: 2020-12-04 16:18:52 - Views: 9814 - Clicks: 9297

明智光秀aiの監修は、「麒麟がくる」の時代考証も務める静岡大学 名誉教授の小和田哲男氏が担当。 会見に出席した小和田氏は、明智光秀の手紙からは部下思いで優しい人柄が伝わってきて、その優しさが織田信長とは相容れず、本能寺の変の一因になった. 定説によると、本能寺の変のとき、中国方面において毛利氏と争っていた秀吉は、変の翌6月3日に信長の死を知ると、翌4日に毛利と和議を結び、光秀討伐に向けて6日に高松を出発し、7日には姫路に到着している。 わずか2日で100㎞を走破していることから、到着したのは騎馬武者隊であったと考えるのが自然であろう。その後、11日には摂津富田地方に到着し、味方の諸将と合流する。 山崎に到着したのは、山崎の合戦の当日である13日であった。秀吉軍は10日もかからずに200㎞もの長距離を移動したことになる。これがいわゆる「中国大返し」とよばれる大行軍だが、足軽などの歩兵の中には大分遅れて到着した者もいたことから、騎馬武者を先頭に複数の隊を組んで順次行軍したというのが実状であったと思われる。 これに匹敵する強行軍といえば、関ヶ原の戦いにおける徳川秀忠軍と言われる。歩兵も含めて一日平均27㎞もの距離を行軍したというから、かなり過酷である。これを踏まえると、中国大返しは奇跡というには少々大げさなような気もする。 むしろ、200㎞を超える遠隔地の出来事である本能寺の変の情報をわずか1日で入手し、それから1日で和議をまとめるという手際の良さに注目したい。あらかじめ信長や光秀周辺に忍びなどの情報網を張り巡らせておかないと、ここまで素早い対応は難しかったのではないだろうか。 毛利との和議をたった1日でまとめた件も、実質、話は6月3日の深夜にはまとまったという。この日の夜の会見相手が、毛利方のブレーン・安国寺恵瓊であった。. それにしても、「怨恨説」を調べれば調べるほど、はっきりとした怨恨の証拠は乏しいのであるが、光秀の信長に対する不満がごく短期間で醸成されていく状況がうっすらと透けて見えるように思えてくるのは不思議である。 不満があまりに短期間で醸成され、さらに光秀自身が大義名分作りのため少々話を「盛った」ことで、怨恨のほうがクローズアップされたのではないかと私は考え始めている。.

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは天正10年6月2日(1582年 6月21日)早朝、京都 本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である 。. 早速ですが、1冊取り上げてみます。 明智光秀と本能寺の変(小和田哲男著) 先に名前を出した、歴史学の権威・高柳氏の影響を受けた歴史家、小和田哲男氏の書いた本を読みましたが、内容に満足することはできませんでした。 明智憲三郎氏の本との落差がすごいです。都合の悪い資料は. 明智光秀と本能寺の変 - 小和田哲男 - 楽天Koboなら漫画、小説、ビジネス書、ラノベなど電子書籍がスマホ、タブレット、パソコン用無料アプリで今すぐ読める。. 明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書) www. 天正7(1579)年の八上城攻略の際に、自分の母親を人質として波多野秀治兄弟を投降させ、信長の許しを得ようとしたがうまくゆかず、波多野兄弟は磔となってしまったために、八上城側でも光秀の母親を磔にしたという話が『総見記』にある。 だが、一次史料にして第一級の史料でもある『信長公記』には、そのような記述は全くない。同書によると、光秀は八上城を1年間包囲し兵糧攻めにして、結果的には波多野3兄弟を捕縛した、とあるが、その後磔にされたという母親の話は全く出て来ない。 さらに、近年の研究では八上城攻めのかなり前に亡くなっていたという記録があることから「母親見殺し」の話は後の創作ではないかとされているようである。ちなみに冒頭のアイキャッチ画像はこの説をイメージしたもの。 怨恨を抱いた原因が「母親見殺し」であるという線はかなり薄いと言えよう。. 主催:明智光秀検定実行委員会(日販セグモ株式会社/株式会社岐阜新聞社) 後援:岐阜県 協賛:岐阜県大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会 公式テキスト:「明智光秀と本能寺の変」小和田哲男(PHP文庫) Amazonで購入 Amazonで小和田 哲男の明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。一度購入いただいた電子書籍は、KindleおよびFire端末、スマートフォンやタブレットなど、様々な端末でもお楽しみいただけます。. 明智光秀と本能寺の変(小和田哲男):php文庫)「謀反人」になるはずのない名将がなぜ、信長を討ったのか?本書は、戦国史研究の第一人者である著者が、本来、名将と称されるべき実績を誇りながら、日本史上最悪の「謀反人」のレッテルを貼られてきた明智光秀の謎に包まれた人物像に.

明智光秀が1582年のあの「本能寺の変」を起こした動機である。 歴史は生き物のように時々刻々と姿を変える。 学説が次々に塗り替えられて、既成概念もあっけなくくつがえされてしまうので、私などなにを拠り所にしたらいいのか、いつも迷ってしまう。. 明智光秀と本能寺の変 - 小和田哲男 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。. 大河考証の小和田さんの講演会の様子が報道されていました。 話は、主君信長を討った本能寺の変へ。50ほどの説がある光秀最大の謎について持論を展開した小和田さんは「誰かにそそのかされて動く武将ではない」と、単純な謀反説や黒幕説を一蹴。. 静岡大学名誉教授 小和田哲男/「本能寺の変」の後、明智光秀は山崎の戦いに臨むが、孤立し敗れ、小栗栖の地で落武者狩りに遭う。この後、徳川家の儒教道徳支配が続くため、本能寺の変は極悪非道といわれるが、 戦国時代という観点からみていくと、どう捉えればいいのか。最後に、光秀. 明智光秀とは? 本能寺の変にて主君・織田信長を討ったことで有名な明智光秀だが、軍事、政治、外交などすべて万能にこなす逸材であった。 そんな光秀の人格の背景はベールに包まれている。. 光秀が“本能寺の変”で織田信長を討った人物だとは知っているけど、それ以外のことはほとんど知らないという方、多いのではないでしょうか? 「光秀は、城作りの名手でもあったんです」と語るのは、小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)。. という場面である。 この場面はドラマなどでも使われることが割と多かったために、ご記憶の方も多いだろう。 明智光秀研究の第一人者として知られる高柳氏は著書の中で、「『川角太閤記』という本は、誤りも多いけれども肝要なことはよく捉えており、珍重すべきところも多い」と述べている。 『川角太閤記』の光秀に関する話は主に、家臣であった山崎長門守の述懐に基づいていると思われる。高柳氏はその点を重要視したのかもしれない。やはり、二次史料だからといって、第一級の史料でないとは限らないのである。 しかし、侮辱を受けたことは事実だとしても、それが謀反の原因だとまでは言い切れないことには注意したい。もしかすると、甲州征伐の時点で、信長と光秀の間に何らかの軋轢が生じていて、「諏訪で御折檻」も本能寺の変も単に、その延長上の出来事であったのかもしれない。. jpで購入する 歴史家の渡邊大門さんによる著作『明智光秀と本能寺の変』です。.

エイムック4508 本能寺の変と明智光秀(小和田泰経監修)対談掲載: 監修者: 小和田泰経: 出版社: 枻出版社 : 発売日: 年11月28日発売: ページ数: ムック/111ページ: 定価: 本体1,200円+税. 静岡大学名誉教授 小和田哲男/「本能寺の変」の謎には、いくつもの仮説がある。古くから囁かれるのが「怨恨説」と「天下取りの野望説」であり、一時は「黒幕説」が盛んだったが、直近では「四国問題説」が浮上している。. 明智光秀と本能寺の変 明智光秀と本能寺の変 - 小和田哲男 著者 小和田哲男 「謀反人」になるはずのない名将がなぜ、信長を討ったのか?本書は、戦国史研究の第一人者である著者が、本来、名将と称されるべき実績を誇りながら、日本史上最悪の「謀反人」のレッテルを貼られてきた明智光秀の謎に包まれた人物像に. 小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第12回【「本能寺の変」に至る光秀と信長】 信長による足利義昭追放のあと、光秀の政治的立場はどうだったのでしょうか?信長家臣の中でも有能な光秀は「近畿管領」といわれる要職に就きまました。さらに、信長が京都で行った大規模な軍事パレード. 秀吉が本能寺の変に「一枚かんでいる」とすれば、官兵衛がそれを知らぬはずはないと思われる。 京都造形芸術大学教授の松平定知氏は、本能寺の変のシナリオを官兵衛が書いたとの説を支持している。 この説は確かな資料による裏付けがなく、想像の域を出ない。しかし、官兵衛は自身ゆかりの神社である広峰神社の「御師(おし)」を利用して全国から情報を得ていたと言われている。「御師」は神主に仕え、様々な「お札」を全国各地の信者に配って歩く役目を負っていたからである。 官兵衛であれば京の公家衆とも怪しまれずに連携を取れたであろう。したがって、「本能寺の変のシナリオを書いた」とまでは行かなくても、信長の身に何かありそうだということを、早くから察知できる立場にいた可能性は高いのではないだろうか。. 明智光秀と本能寺の変 / 小和田哲男 著 - PHP研究所ならYahoo! この記事では「なぜ細川藤孝は、本能寺の変の直後に、盟友の明智光秀に味方しなかったのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。 これを読めば「細川藤孝の考えていたこと」を、カンタンに理解できます。 「細川藤孝」は「光秀が勝っても敗けても、どちらにし. 毛利家家臣玉木吉保の日記『身自鏡』(みのかがみ)によると、このとき秀吉は毛利家の重臣のほとんどが秀吉に調略されたことを示す書状を恵瓊に見せたという。そして信長が倒れたことを打ち明け、自分に味方してくれるよう頼んだというのである。 ひょっとすると秀吉は信長に何か起こると察知して、かなり前から調略を進めていたのかもしれない。 恵瓊が以前から秀吉を高く評価していたことはよく知られている。天正元年(1573年)12月12日付の児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状によると、恵瓊は 「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」 と書いている。平たく言うと「信長は危ういが、秀吉は中々の人物で見どころがある」ということである。 天正10年(1582年)6月3日の会見で、恵瓊は秀吉の天下取りにかけてみようと感じたのではないだろうか。そう考えれば、和議が1日で成ったことも不思議ではない。 安国寺恵瓊を重用したのは毛利一族である小早川隆景である。彼は智将として名高く、秀吉の軍師黒田官兵衛とも毛利・織田の折衝を通じて好を通じるようになる。2人は仲が良かったらしい。 羽柴秀吉・安国寺恵瓊・小早川隆景・黒田官兵衛は敵味方の枠を超えて、互いを認め合う仲だったようである。「中国大返し」の裏には、これら智謀の将の連携があったと私は考えている。.

『明智軍記』によると、光秀が中国に向けて出陣する直前に、信長の使者として青山与三が遣わされて、「出雲・石見は切り取り次第領地にしてよいが、その際、近江坂本・丹波は召し上げる。」と命じたという。 『明智軍記』は二次史料で、しかも誤記が多いことから、その信憑性は低いと言われている。そして、小和田哲男氏の著書『明智光秀と本能寺の変』によれば、まだ平定されてない所を「空手形」のように与えられて、腕ずくで自分のものにしていくという所領の与え方もあったのだという。 したがって、この処遇によって光秀が恨みを抱いた可能性は低いであろう。どちらかというと、小和田氏も指摘しているように畿内管領としての役職を外されて畿内から遠ざけられることに不満を覚えた可能性は高いと思われる。 光秀は左遷を意識したのであろうか。それとも畿内にこだわる「何か」があったのだろうか。. 徳永真一郎『明智光秀』php研究所、1988年。 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』php研究所〈php文庫〉、年。isbn。 関連項目. この場合の三人とは近衛前久(このえ さきひさ)・吉田兼見(よしだ かねみ)・勧修寺晴豊(かじゅうじ はるとよ)のことである。 これらの公卿は信長と交流があったことで知られ、特に近衛前久とは共に鷹狩を楽しむなど、かなり仲が良かったとされる。この三人の特徴は秀吉とも交流があったという点である。そしてこの三人のうち、本能寺の変前日にあたる天正10年(1582年)6月1日の本能寺で催されたという茶会に出席していない者がいる。 それは吉田兼見である。 近衛前久と勧修寺晴豊は本能寺の変後、豊臣政権との関係は特に良好であったという記録はないが、吉田兼見のみ比較的良好な関係を維持している。 吉田兼見は公家ではあるが、京都吉田神社の神主にして吉田神道宗家・吉田家9代当主という別の「顔」も持ち合わせている。そして、京都八坂神社が黒田官兵衛ゆかりの播磨広峯神社の分社であるという説が、中世には吉田神道に採用されたというからその関係は浅くはないと思われる。 官兵衛が御師を用いて吉田兼見と連携を取るのは可能なのではないだろうか。 秀吉が本能寺の変を仕組んだ、とまではいかなくても信長の身に何かありそうだという情報を極秘裏に得て、秀吉が天下人となれるよう動いた人物が複数いたということはありそうだというのが私の見立てである。. ジャンル: 一般講演情報: 講演名: 7/7-8 nhk旅座 四国の名城を訪ねる旅 →年1月27-28日に延期: 受講料等: 旅行代金:2~3名1室利用 67,000円 1名1室利用 69,800円. Amazonで小和田 哲男の明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。小和田 哲男作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 「不安説」は左遷を意識した光秀が自身はもとより、一族の将来に不安を覚えて、保身のため謀反に及んだというものである。この説は、そもそもは『日本外史』を著した江戸時代後期の歴史家・漢詩人である頼山陽が唱えた説である。 織田家の出世頭であり、近畿管領としての役職にまで上り詰めた光秀に左遷の不安があったのだろうかと思ってしまいがちであるが、光秀の「年齢」を考えるとうっすらと不安のようなものが見えてくる。 『当代記』によれば、光秀の年齢はこのとき67歳であったという。 当時としてはかなりの高齢であり、「老い」ゆえに今までのように功績を上げていくことができないのでは、という不安を感じていた可能性はあるだろう。しかもこのとき光秀嫡男の明智光慶(みつよし)はまだ10歳であり、十分な後見ができぬまま自分が死ねば、一族の繁栄は危うくなる。 この焦りは結構大きかったのかもしれない。長宗我部の阿波を巡っての四国政策は、元親を説得できないという点で信長には失敗と映るだろうと考えたと、いうこともある。.

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戦国のヒーロー織田信長を本能寺の変で討ったことで余りにも有名な明智光秀。 織田家臣団の中では、新参者でありながら出世街道をひた走り、のちに天下人となる豊臣秀吉の ライバルでもあった、光秀の真実に迫る検定が誕生! 特典 1. See full list on sengoku-his. 光秀が信長から侮辱を受けたという逸話は多数残されている。その1つが「諏訪で御折檻」である。この記述が見られるのは『川角太閤記』、『祖父物語』であるが、『祖父物語』にはこうある 「信州諏訪郡何レノ寺ニカ御本陣可レ被レ置ト。其席ニ而明智申ケルハ。扨(さて)モ箇様成目出度事不二御座(おわし)マサ一。我等モ年来骨折タル故。諏訪郡ノ内皆御人敷也。何レモ御覧セヨト申ケルハ。信長御気色替リ。汝ハ何方ニテ骨折武邊ヲ仕ケルヲ。我社(こそ)日頃粉骨ヲ盡(つく)シタル悪キ奴ナリトテ。懸造リノ欄干ニ明智ガ頭ヲ押附テ扣(たた)キ給ウ。其時明智諸人中ニテ耻ヲカキタリ。無念千万ト存詰タル気色顕レタル由傳タリ。」 天正10(1582)年3月に武田征伐(甲州征伐)が終わり、信濃国の諏訪にて「我らも苦労した甲斐があった」という光秀に対して、信長が「お前は何の功があったというのか」と激怒し. 光秀研究の進捗を実感できる『明智光秀と本能寺の変』 日本史上最悪の謀反人と烙印を押された明智光秀。 しかし歴史は勝者が作りあげるもので、彼のイメージは、豊臣秀吉の命によって書かれた『惟任退治記』や、江戸時代に入ってから作られた創作物. 光秀とともに信長の元で活躍し、本能寺の変の後に光秀を討った秀吉役は佐々木蔵之介さん。 そして時代考証をつとめるのは、戦国時代研究の第一人者・小和田哲男先生。. 天正10年(1582年)の6月2日、本能寺の変が起きたことで、信長はもとより、嫡男信忠も死んでしまったことで、織田家は主が不在という状況に陥る。そして羽柴秀吉はすぐさま山崎の戦いで謀反人の明智光秀を討ち、この時点で最も有力な織田政権の後継者となった。 宿老の柴田勝家をはじめとする他の家臣たちや、信長二男の信雄、三男信孝などの後継者候補などは、光秀に比べたら秀吉にとっては恐れるに足らない存在であったろう。つまり、本能寺の変で最も利益を得たのは「秀吉」なのである。 推理の世界では「最も利益を得たものをまずは疑え」と言われる。この方針で行くと、疑わしきは「秀吉」ということになる。. 小和田哲男著 《静岡大学名誉教授》 主な著作 『この一冊で「戦国武将」101人がわかる』(三笠書房) 税込価格: 682円(本体価格620円) 内容: 明智光秀とは何者だったのか? 本能寺の変の真相とは?. 天正一〇(一五八二)年六月に起きた「本能寺の変」は、日本史における最大の.

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